『霧が晴れた時』(小松左京)
収録作;「くだんのはは」「保護鳥」ほか
区分:小説,ホラー
感想:
すべて読み終えたような気もするし、あるいは読み終えた気がしているだけかもしれない。けっこう昔に読んだものだから、正直いって「くだんのはは」以外はあまり記憶にない。気になった短編をいくつか読んで、その他は流し読みだったかもしれない。それでも私がこれを勧めるわけは「くだんのはは」をどうしても勧めたいからだ。
小松左京のSFは、そりゃあもう、神がかっている。
圧倒的なディティールが、途方もないスケールを現実的に足らしめているのだ。突然現れた脅威に対し、国がどう動くか。そして人々の生活はどうなるか? 最近の例でいえば『シン・ゴジラ』のようなものだろうか。そのなかでも特に『日本沈没』はド派手なエンターテイメントであると同時に、人間心理を執拗なまでに描いた傑作である。
さて。「くだんのはは」の話をしよう。
主人公は「僕」である。空襲で家が焼けてしまったため、「僕」は元家政婦のお咲さんの好意で、ある屋敷に泊めてもらうことになった。
その屋敷には病気の女の子が住んでいるというのだが――
「繃帯、ひきずってるよ」
お咲さんはふりむいた。その拍子に洗面器の中身がまる見えになった。それは洗面器一杯の、血と膿に汚れた、ひどい悪臭をはなつ繃帯だった! お咲さんはすっかり狼狽して、台所の方へ走り去った。
あの執拗なまでのディティール描写がホラーへ転用されると、不安感を煽るために、このような文章を平気で出す。こっちは怖いことが起こる、怖いことが起こると身構えているが、だからこそ、怖いことが起こりそうな雰囲気に汗腺がぶわぁっと開く。
そして「不穏パーツ」とでもいえる、このような文章が積み重なり……物語は、皮肉な運命へと収束するのだ。
ホラー短編の傑作である。日本ホラー小説大賞が短編部門を廃止したのは最近のことだけど、「夜市」「姉飼」「玩具修理者」などの傑作を生み出した短編部門を廃止してから、勢いはどんどん弱まってしまったように感じる。なぜ廃止したのだろう。ホラー短編には大きな可能性がある。それを「くだんのはは」が教えてくれるというのに。
ちなみに、であるが。
「保護鳥」は現代となってはありふれた話であるけれど、クトゥルフ神話が好きな人は好きなんじゃないかと何となく思う。文体や物語のスケールの大きさ(これはクトゥルフのほうが大きい)は異なるが、恐怖の種類というのは「保護鳥」と「クトゥルフの呼び声」は、そう変わらないのではないか。