『現代詩文庫 94 伊藤比呂美詩集』(伊藤比呂美)
収録作;「生きた男の一部分」「カノコ殺し」ほか
区分:詩集
感想:
強烈なのは、「カノコ殺し」である。
私は、この詩を別の場所で読んでいた。突然、思い出し、「カノコ殺し」が所収されている『テリトリー論2』を買おうと思ったが古書しかなく、かつ高いという始末であったので、半ばあきらめていた。ところが現代詩文庫に収められているという情報を、かなり高度な情報検索技術(Twitter検索)を用いて入手したので、喜び勇んで購入した次第。
伊藤比呂美は女性であるわけだから、この詩は女性詩である。
女性詩、という言葉に反感を抱く者もあるかもしれない。詩は詩であり、わざわざ「女性」を付けるということは、詩は男性のものであるという誤った既成概念によるものなのではないか?
しかし、伊藤比呂美が紛れもない「女性詩人」であることは、そのジェンダーからではなく、その作品から読み取れることなのである。
「カノコ殺し」の一部だけ抜粋して論じることは、無粋である。というのも「カノコ殺し」(に限らず大抵の詩・小説・映画――ありとあらゆる作品)は一連の流れにあって初めて全体的な生々しさを演出するのであるからである。しかし、私の技量から処々引用しながら語らねばならない。
わたしは
カノコによく似たはずの胎児の妊娠を中絶したわけです
カノコによく似たはずの胎児は成長して
カノコによく似たはずの生児を
わたしは得られたかもしれませんが
カノコのことではない
滅ぼしておめでとうございます
滅ぼしておめでとうございます
滅ぼしておめでとうございます
「カノコ殺し」は、堕胎の話である。
「滅ぼしておめでとうございます」のリフレーンは詩中で幾度となく用いられるが、この詩が詩であるために、この反復は必要であった。この心地よくも残酷な語り口が、この詩の「詩性」を大幅に向上させているのである。
終盤では「カノコによく似たはずの胎児」は「カノコ」に置き換えられて、子殺しのモチーフに発展してゆく。
わたしはカノコを
たのしく捨てたい
じめじめじゃなくうしろめたくなく
たのしくカノコを東京に捨てたい
勿論「カノコ殺し」の繊細な筆致は決して真似できるものではないと思うが、私が感心するのは、伊藤比呂美には実際にカノコという娘がいて、そのエッセイで楽しげにカノコのことを語っているのにも関わらず、暴力性を伴った「カノコ殺し」が書かれたという事実に対してである。
この詩が伝えたいものを、逆説的に「堕胎はいけないことだ」と導き出すことは容易であるが、私は何となくであるが、そんなに単純な話ではないと思う。もっと深い何かが、この詩には隠されていると、私は思わざるを得ない。
それが何であるかと問われると、私は答えに窮するのであるが……
何となく、本当に何となくであるけれど、この詩は当時、偶像として成立していた「おしとやかで弱々しい」女性像を根本的にひっくり返す、「女性」そのものを描く試みであったのではないかと、そう思うのである。